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震災復興版Gyro「がんばろう福島」 インタビュー


 震災復興版Gyro「がんばろう福島」の「福島に暮らす外国出身者の声」と「福島に暮らす外国出身者からの投稿」にて紹介しました記事をまとめました。
 ※登場する方の居住時等は、取材時のものです。

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タガログ語/Tagalog   ポルトガル語/Português   韓国語/한국어


No.84  後藤キャサリンさん(震災時は福島市在住、現在は大阪市在住・フィリピン出身/2016年2月取材)


 東日本大震災直後、私の携帯電話に県内在住のフィリピン出身者から矢継ぎ早に問い合わせの電話があり、避難のためのバスや飛行機の情報を伝えました。当時とても大変でしたが、後にフィリピン大使館から表彰を受けたことで、多くの同郷の人の力になれていたことを実感しました。自分の仕事の都合などで、2014 年春に福島市を離れ、現在は大阪市の会計事務所で働いています。タガログ語の通訳や生活相談に応じる仕事もしています。また、学校や自治体から講演の依頼を受けることがあるので、福島市で東日本大震災を経験した自分だからこそできる情報発信をずっと続けていきたいと思っています。


No.83  手塚玲子さん(福島市・中国出身/2016年2月取材)


 東日本大震災を経験して、自分の好きなことやできることで福島のために何か貢献できないだろうかと強く思うようになり、震災から約1 年後起業しました。主な業務は通訳と翻訳ですが、中国へ進出する企業への支援や県内在住の外国出身者に向けた社会参加のサポートなども行っており、少しずつ事業を拡げています。最近は自ら「福島復興事業」と名をつけて、福島県の観光の委託事業や中国人観光客の誘致活動に関わっています。これからも、「常に新しいことに挑戦する」という考えのもと、前向きに行動していきたいと思っています。


No.82  アリソン・ラムさん(福島市・オーストラリア出身/2015年11月取材)


 2011年夏より、福島市のALT(外国語指導助手)として、市内の小・中学校で英語を教えています。日本に来たばかりの頃は、東日本大震災直後であったことや異文化での生活に、少なからずホームシックを感じましたが、ゆっくりと時間が流れているように感じられる福島ののどかな雰囲気が自分には合っていて、現在はとても居心地が良いです。私は周りの人より自然災害への危機管理に疎く、先日の大雨の時に避難情報が出ていても特に気にしないでいましたが、有事の時は正しい情報を得て、落ち着いた行動を取れるようにしておきたいと思います。


No.81  ムダシル バフィットさん(福島市・スーダン出身/2015年11月取材)


 今年9月に来日し、現在福島県立医科大学で研修医として働いています。福島で暮らすことに大きな不安はなく、日々仕事に邁進しています。職場ではすべて英語で会話をするので、日本語を使わなくてもコミュニケーションが取れていますが、日常生活では日本語の必要性を感じています。今後約10年間は日本での勤務が続きますので、地域の方々とも交流ができるよう、毎週日本語のレッスンを受けています。




No.80  李 莉岩さん(郡山市・中国出身/2015年11月取材)


 今年3月に「日中文化ふれあいの会 幸福」を立ち上げました。郡山市内に住む中国出身者とその子どもたちや、日本と中国の文化交流に関心のある方などが会員です。子どもたちに母語を教えたり、ヨガや中国舞踊の講座を開催したりして、互いに理解を深める機会を設けています。私自身、日本で暮らし始めた頃や東日本大震災などで、助けを求めたくてもどうしたらいいか分からない経験をしましたが、特に外国出身者で同じような思いの方たちは少なくないと思います。思いやりの心を持ち、共に助け合うことで、楽しく暮らしていける地域づくりに貢献したいと考えています。


No.79  後藤麗華さん(福島市・中国出身/2015年6月取材)


 先日、日本人と外国人がどう共生していくべきか話し合う場があり、講師を務めました。私は日本で暮らしていくならば、日本語の習得は不可欠だと思っています。家族や日本人の友人とのコミュニケーションはもちろん、子どもの成長や教育に真剣に向き合いたいし、言葉が通じないと日々の生活が明るくならないからです。もともと私は情報収集が下手で、震災後は正しい情報を把握するのに苦労しました。今はWechatやLINEなどのSNSを使い、中国出身の友人とも気軽に連絡を取り合うことができるようになり、日々のちょっとしたストレスも軽減されています。


No.78  ファイサル ブリディ アルマンシャさん(福島市・インドネシア出身/2015年6月取材)


 2012年11月に技能実習生として福島市に来ました。今年の秋まで約3年間、建設機械施工や溶接などの技術を習得しています。2004年に発生したスマトラ島沖地震を経験し、当時自分自身や家族、通っていた高校に被害はなかったですが、大規模な災害が急に起こる恐怖を知り、常に防災の意識を持つようになりました。福島での暮らしの中でも何度か大きい地震に遭遇しましたが、その度に、避難場所はどこなのか、身を守るために何をするべきかなど冷静に判断するようにしています。また、情報をきちんと得ることができるよう、災害に関する日本語も覚えています。


No.77  佐々木マリセルさん(福島市・フィリピン出身/2015年6月取材)


 高校生の娘と中学生と小学生の息子がいます。子どもたちそれぞれの生活時間帯が異なり、私自身も仕事をしているので、毎日慌ただしいです。震災後に来日したため、東日本大震災や原発事故当時の大変さはわかりませんが、子どもの健康に関することは常に気に留めています。
 休日は、外国出身者が集うアクティビティに積極的に参加するようにしています。同じく外国出身である皆さんと話をすると、日本で生活する上で参考になることがたくさんあります。


No.76  鈴木ミラソルさん(いわき市・フィリピン出身/2015年2月取材)


 震災直後は主人の実家の郡山市や姉が住んでいる和歌山へ一時避難しましたが、その後はずっといわき市に住んでいます。2年前二男が誕生し、日々子育てが大変ですが、現在は英会話教室で働くこともでき、落ち着いた生活が送れています。震災時に一時避難していた人が戻ってきたり、新たに仕事や結婚で来たりと、いわき市にはたくさんのフィリピン出身者が暮らしています。フィリピン出身者同士でも地域や世代、生活環境等でいろいろなコミュニティがありますが、みんなで協力し合っていきたいです。


No.75  呉 傑さん(福島市・中国内モンゴル自治区出身/2015年2月取材)


 2010 年に来日し都内の日本語学校や大学へ通い、昨年春に福島大学へ編入しました。福島大学を選んだのは、学びたいことがあったのはもちろん、震災直後にボランティアで福島を訪れたときに、福島ののどかさが内モンゴルの故郷と似ているところに共感したからです。大学では経営学を専攻しており、ゼミの活動で広告や雑誌作りに携わったことで県内企業の方たちと交流する機会ができました。その縁を生かして、できれば卒業後は福島県内で働きたいと思っています。


No.74  タパ ビニータさん(福島市・ネパール出身/2015年2月取材)


 昨年春から福島日本語学院で日本語を学んでいます。この1 年間で最も楽しかった思い出は、相馬といわきへ連れて行ってもらい、初めて海を見ることができたことです。それまで映像でしか見たことがなかったので、友達とうれしくてはしゃいでしまいました。しかし、震災の時は福島県の海も何メートルもの高さの津波が来たことを知り、今まで全くなかった防災意識を持つようにもなりました。
 学校では春から上級クラスになり、日本語の勉強ももっと難しくなると思いますが、卒業したら留学生として日本の大学へ通い、将来は観光の仕事をしたい夢があるのでがんばります。


No.73  芟花・ナンシー・幸さん(会津若松市・ブラジル出身/2014年11月取材)


 私の父は双葉町出身で、母方の祖父母が本宮市(旧本宮町)の出身です。幼い頃からブラジル福島県人会の活動に参加していたので、東日本大震災はとても心が痛みました。現在、今年度から再開した福島県費留学生として、会津大学短期大学部でグラフィックデザインの勉強をしています。今回の留学で、福島県という場所でやりたかった勉強ができ、また福島の今の様子を見ることができて、良い機会が重なったことにとても感謝しています。


No.72  サイブヤン・オドバヤルさん(福島市・モンゴル出身/2014年11月取材)


 震災直後の2011 年春に福島大学に留学し、来年春から大学院に進学予定です。大学での企業経営の勉強の他、起業家育成のプログラムやアメリカでのインターンシップを受けるなど、将来ビジネスを展開させるためのノウハウを身につけています。先日、「全国学生英語プレゼンテーションコンテスト」に参加し、「震災復興を加速せよ!」というテーマでスピーチしました。次の世代に必要なことは、強い人材の教育だと思っており、私自身もいろいろな経験をして成長していければと思っています。


No.71  澤上チャンさん(郡山市・ベトナム出身/2014年11月取材)


 2007 年に来日し、家族と郡山市で飲食店を経営しています。東日本大震災ではお店が倒壊する被害に遭いましたが、その後再建させ、常連だったお客様にも戻っていただけるようになりました。お店にはベトナム出身以外の外国人スタッフもいて、日本語の理解に苦労している人もいるので、常にみんなで力を合わせて手伝い合うことを大事にしています。
 近年、福島県でもベトナム人の技能実習生や研修生が増えてきています。彼らには日本での生活に役立つ情報を提供したり悩みごとの相談に応じたりして、できる限り手助けしたいと思っています。


No.70  バズ・モハマドさん(福島市・パキスタン出身/2014年10月取材)


 福島に住んで約12 年になります。中古車の輸出業に携わっており、近年はカーオーディオやナビゲーションなどの販売もしています。仕事が忙しく、心身休まることがなかなかありませんが、現在、家族みんなで平穏に暮らせていることを何より幸せに感じています。これまでずっと「生きていれば困難なことはたくさんある」という考えで暮らしてきましたが、実際は周りの方たちが親身になってサポートしてくれたおかげで今の自分があり、とても感謝しています。


No.69  エマ・ウィルソンさん(川俣町・イギリス出身/2014年10月取材)


 2010 年9 月から広島市の大学に1 年間留学し、春休み期間で東京に遊びに行っていた時に東日本大震災に遭いました。地震自体を体験したことがなかったので、その時の衝撃は一生忘れることはないと思います。今年の8 月から、川俣町のALT(外国語指導助手)として、川俣町の小・中学校で英語を教えています。大学で言語学を専攻していましたが、ALT の仕事を通して英語とは違う日本語の面白さを知り、将来は日本語を使う仕事ができたらいいなと思っています。


No.68  ウィルアム・パトリック・ティムズさん(矢祭町・イギリス出身/2014年10月取材)


 2013 年春に来日し、現在矢祭町に住んでいます。日本の文化や生活習慣、福島県のことなどを知った上で日本に来ましたが、実際に生活してみて新たに知ったこともたくさんあり、その度に新鮮な感覚を覚えます。友人のFacebook を通じて福島県国際交流協会の「ワン・ワールドプロジェクト」を知り、メンバーに加わりました。仲間たちとコミュニケーションがよくとれており、いろいろな考えや意見が出ていて面白いプロジェクトです。現在、福島の魅力を紹介する映像の制作をしており、完成が今から楽しみです。


No.67  ウィリヤキッスントン・レークリットさん(福島市・タイ出身/2014年5月取材)


 日本で暮らすようになった約1 年半後の2011 年4 月、福島市内の高校へ進学しました。周りに溶け込むことや、日本語の更なる習得と学校の授業についていくことに必死でしたが、いい仲間に恵まれたおかげで充実した3 年間を送ることができました。今年の4 月に就職し、新しい環境で毎日奮闘しています。これまで苦しいことや辛いことにぶつかると逃げてばかりでしたが、東日本大震災や日本での生活を通じて、何事も自分で乗り越えないと前には進めないことを学びました。自分と同じような立場の子どもたちには、自分の経験を元に良きアドバイザーになれたらいいなと思っています。


No.66  美谷マリアさん(福島市・フィリピン出身/2014年5月取材)


 今年の春から福島県国際交流協会のタガログ語相談員として働いています。20 年以上福島市に住んでいるので、久しぶりに母国に里帰りすると「外国人」のような感覚になり、新たに知り得ることも多いです。同郷の方たちの相談には、相手の立場にたった親身な対応ができるようにしたいと思っています。震災直後はあらゆることに神経質になってしまいましたが、周りの方たちの支えのおかげで、気持ちをうまく切り替えられるようになりました。仕事と家事、子育てに毎日慌ただしいですが、心に余裕を持てるようになり、忙しさも楽しめるようになってきました。


No.65  ウォン・チャンソプさん(福島市・韓国出身/2014年5月取材)


 高校生だった2006 年の夏、1 か月間福島市の家庭でホームスティを体験しました。スティ中にお世話になった家族や出会った人たちがとてもよくしてくださったおかげで、帰国後日本で勉強し、日本で働きたいと強く思うようになりました。その後偶然にも進学先が福島大学になってとてもうれしかったです。兵役のため2 年間休学していましたが、今年の4 月に大学に復学しました。日本での生活が再開し、言葉や文化、習慣などをさらに知っていく中で、自分の未熟さにも気づくことがあり、努力し続けていくことの大事さや向上心が芽生えています。


No.64  コラソン ラソン のり子さん(福島市・フィリピン出身/2014年5月取材)


 福島市内で英会話スクールを主宰して20年近くになります。かつての教え子のお子さんが通ってくれることもあります。近年はずっとやりたかった社会奉仕活動にも力を入れることができて、母国の小学校建設に関わりました。
 私が日本に来た頃は、まだ外国人が少なかったため、言葉や文化の違いだけでなく、人と向き合うことでの些細なことなど様々なことに苦心しました。福島で暮らす同郷の友人の相談にのることが度々ありますが、そのような時は自分の経験が生かされていると感じます。
 私のモットーは、「大変」という言葉を使わないことと、いつも笑顔で夢と希望を持つことです。東日本大震災はとてもショックな出来事でしたが、毎朝、祈りとともに、今日1日をどのように素敵に過ごすかを考え、嫌なことは考えないようにしています。


No.63  鷲尾麗さん(郡山市・震災時は川内村在住・中国出身/2014年3月取材)

 川内村に住んでいたので避難生活を余儀なくされました。郡山市に避難することとなり、震災前まで一緒に暮らしていた夫の両親と離れて生活することになってしまいました。また、夫が単身赴任となり、現在は小さい子ども3 人との生活になっているため、慣れないことがずっと続いています。早くフルタイムでの仕事を再開させたいと思っていますが、ライフバランスがうまくとれず困っています。ただ、郡山市で暮らすようになってから、子どものお母さん(ママ友)や同郷の友人がたくさんできる機会に恵まれました。震災を経験したことで、助け合うことや人間関係の大切さに気づいたからだと思います。支えてくれた方に感謝して、今後も絆を大事にしていきたいと思います。


No.62  バトエルデネ・ラムヤンジンさん(福島市・モンゴル出身/2014年2月取材)

 東日本大震災直後の2011 年春に福島大学へ進学しました。その年の同じ学部の留学生は7 人しかおらず、最初は心配や不安だらけの学生生活でした。大学にはモンゴルで同じ高校だった先輩がいて常に親身に接してくれるのでとても助かりました。また震災ボランティアとして仮設住宅で暮らす方たちと触れ合ったことで、福島での学生生活は自分の人生でとても貴重な経験となると前向きに考えられるようになっていきました。また、福島県国際交流協会の事業に参加しモンゴルについて紹介したことで、自分の国のことをもっと知りたい、また正しい情報を伝えていきたいと思うようにもなりました。残り1 年となった学生生活では、福島で暮らす今の自分にできることを意識して、有意義に過ごしたいと思っています。


No.61  丹野ジュリエットさん(いわき市・フィリピン出身/2014年3月取材)

 東日本大震災後、いわき市内に複数あったフィリピン出身の仲間同士の小さなグループをひとつにまとめ、「いわきフィリピノコミュニティ」を立ち上げました。現在約50 名の仲間がいて、月に一度集まり交流しています。生活面や子どものこと、言葉の問題などのお互いの悩みを相談することが多く、仲間内での情報交換や共有もできています。最近はいわき市内の公民館で小学5・6 年生を対象とした英語講座や有識者を招いたワークショップ開催などの活動をしています。それぞれ一人一人の力は小さくても、仲間が集まり協力し合うことで可能性は広がると思うので、今後も継続して活動ができればと考えています。


No.60  寺田パニーダさん(郡山市・タイ出身/2013年11月取材)

 東日本大震災による被害で、営業していたタイ料理レストランを閉店せざるをえなくなり、昨年秋ようやく再オープンすることができました。現在は日本人だけでなく、同郷の方たちも私のお店を訪れてくれます。近隣に住む同郷の友人たちとは近況報告をしあい、時には相談にのることもあります。震災後、自然災害に対する恐怖心が消えない人が多くいます。私は長く日本で暮らしているので、困っている人には力になりたいと思っています。なかなか休みがなく毎日慌ただしいですが、たまにゆっくりできるときは磐梯熱海の温泉へ行きリラックスしています。福島県に住んでいてよかったと思えるひとときです。


No.59  大倉リンさん(福島市・フィリピン出身/2013年12月取材)

 東日本大震災後、福島市内在住のフィリピン人のグループ(HAWAK KAMAY FUKUSHIMA)が作られ、私も仲間に加わり被災者支援活動に取り組んでいます。先月8 日に発生した母国の甚大な台風被害は、震災当時を思い出し、惨状に胸がつぶれる思いになりました。グループの仲間みんなも同じ思いで、母国のためにできることをしなければと連絡を取り合い、衣類や非常食などの支援物資を集め、また11 月30 日(土)と12 月1 日(日)にはJR 福島駅東口広場で街頭募金活動を実施しました。協力的な方や励ましの言葉をかけてくださる方が多く、ありがたかったです。些細なことでも、たくさんの人が協力し合うことで大きな力になるということに再度気づかされました。


No.58  閔 晟彦さん(福島市・中国出身/2013年12月取材)

 2011 年春に福島大学へ進学することになっていましたが、東日本大震災の発生で1 年間中国へ帰国したため、入学時期が1 年遅れました。しかし、その待機中に原発や放射能について正しい知識を持つことができたので、今は不安になることなく心穏やかに学生生活を送っています。今年度は福島大学留学生会の会長になり、学園祭や福島市の国際交流イベントに参加しました。また、福島県国際交流協会の国際理解出張講座の外国人ゲストとして、小学生や中学生に中国の文化や習慣について紹介する機会もありました。子どもたちが関心を持って聞いてくれたので嬉しかったです。あと2 年間学生生活が続きますが、福島で過ごすからこそ経験できることに、意欲的に参加したいと思っています。


No.57  河野惠子さん(福島市・中国出身/2013年8月取材)

 私が日々意識していることは、「平常心で過ごす」ということです。東日本大震災後しばらくの間は、冷静さを失ってしまい、些細なことでも小さな娘の成長に影響が出ないか心配ばかりしていました。幸い仕事をしていたので、周りの人たちと協力し合うことで、悪いことばかりは続かないし、いつか良いこともあるだろうとプラス思考になり、多角的に物事をとらえて状況判断ができるようになってきました。
 原発問題など福島はまだまだ困難なことが多いですが、情報収集をおこたらないようにし、その中で福島の復興のために今の自分にできることを積極的に行っていきたいと思っています。


No.56  本田直木さん(福島市・フィリピン出身/2013年8月取材)

 東日本大震災が発生する10 日前、自分の家が火事になるという大きな不幸に遭いました。しばらくは家族が離れて暮らすことになり、また、震災の影響で働き始めるのが2 カ月遅れることにもなり、2011 年は辛い思い出しか残っていません。今も振り返りたくないことばかりですが、調理師になる修業を重ねて、今年の夏に福島市内に飲食店を出すことがきました。ハードな毎日ですが、今はとても充実しています。お店にたくさんの人が来てくれることを願っています。研鑽を重ねて将来支店も持てるようになりたいです。


No.55  劉 芳さん(福島市・中国出身/2013年7月取材)

 通っていた大学が春休みで、ちょうど家にいた時に東日本大震災を経験しました。新潟の中国総領事館から避難するようにと連絡がありましたが、夫や夫の家族を残して私ひとりだけが避難するということはしたくなかったので、母国へ帰国しませんでした。放射能の恐怖より家族とともに生きる方が私には大事でした。約10 年前、日本に来た頃は、言葉がなかなか通じなかったり、日本での生活になかなか溶け込めずに辛い思いをしました。その頃と比べると、震災を経験したことでより自分が強くなったように思っています。また、人の気持ちをあまり考えていなかった自分を改め、周りの人や誰かのために自分にできることはするべきだと思うようにもなりました。
 現在、福島県国際交流協会主催の「ふくしまグローバルユースカレッジ2013」に参加しています。未来について考え、問題意識を持った仲間に刺激を受けています。


No.54  志賀麗さん(会津若松市・震災時は大熊町在住・中国出身/2013年5月取材)

 東日本大震災当時は大熊町在住だったため、すぐに避難を余儀なくされ、現在も会津若松市内の仮設住宅で生活しています。長く続く仮設住宅での生活に震災直後とは異なる不安にかられることや、居住者間でのコミュニケーションの難しさに悩むことがあります。価値観の違いを受け入れることや支え合う人間関係、私自身が必要とされる機会は特に大事にしたいと思っています。
 役場から仮設住宅の世帯毎にタブレット端末の支給があり、町からの連絡事項の確認やインターネット・テレビ電話の利用、町民間でのSNS 活用ができるようになりました。私自身もスマートフォンを購入しました。機器の操作になかなか慣れませんが、情報収集不足がないようにしています。


No.53  川村エミーさん(福島市・アメリカ出身/2013年5月取材)

 震災直後、夫の実家がある山形県酒田市に息子と2 人で避難しました。何より息子の健康を一番に考えたからです。今も地震はありますし、放射能のことは不安でしたが、家族みんなで暮らす方が良いと考え、今年の3 月に福島市に戻ってきました。息子も元の小学校に戻り、友だちとも再会できて、外で元気に遊んでいます。
 7 年前、当時住んでいた千葉県成田市から福島市に移ることになった際、周りの人からは「福島は緑も多く、食べ物もおいしいから、住むにはとてもすばらしいところだ」と言われました。東日本大震災が起きた際は180 度変わってしまいましたが、今現在も誤解されたままであることが少なくありません。避難して戻ってきたからこそ、今の自分の生活は安全で、元気に暮らしているということを伝えていかなければと思います。また、再び多くの観光客が福島を訪れるようになってほしいと思います。


No.52  アダム・ヴェリンさん(福島市・カナダ出身/2013年5月取材)

 昨年夏より、福島市のALT(外国語指導助手)として勤務しています。着任前、福島で働くことを喜ばない家族もいましたが、東日本大震災から1 年以上経過していたので、私自身は福島で生活をすることに迷いや不安はありませんでした。
 福島に来てから、震災や原発事故についてさらに詳しく知ることとなり、風評被害や逆境に負けずに、忍耐強く生きている県民の姿を目の当たりにしました。ALT の任期は来年の夏までですが、残りの期間中に福島県での貴重な経験を多く蓄積したいと思っています。人との出会いはもちろん、県内の観光名所をできるだけ訪れたいですし、すばらしい自然景観も堪能しておきたいです。



No.51  趙 ヨン姫さん(郡山市・韓国出身/2013年3月取材)

 東日本大震災後、県内に住む外国出身の友人のほとんどは一時帰国や福島を離れましたが、私には「帰国する」「避難する」という選択はありませんでした。 その選択は今も間違っていなかったと思っています。私は17年郡山市で家族と暮らしているので、「外国人(韓国人)」ということより「郡山市民」である意識が強いです。
 現在、私は郡山市や矢吹町の公民館などで韓国語や韓国料理教室の講師をしています。震災があってからは、何か夢中になることがあれば人は元気になれるということに気づかされました。私の講座を受講してくださるみなさんそれぞれが目的をもって意欲的に参加してくださるので、私はみなさんの力になりたいと思っています。4月から新しい講座がスタートしますし、韓国語を教えている高校も新学期となるので、また新たな出会いが生まれます。今からとても楽しみです。


No.50  チャミラ・カルナティレイクさん(会津若松市・スリランカ出身/2013年2月取材)

 私が住んでいる会津地域では、東日本大震災の被害はあまりなかったものの、連絡手段がしばらく不通だったため不安でした。震災後、大学の先生や仲間とボランティア活動を行い、実際に津波被害の悲惨さを見て、過酷な中でもたくましくがんばっている日本人の姿が忘れられませんでした。日本人の強さや真摯さを尊く感じました。
 震災を経験して、放射線の安全なレベルと今の福島県内のレベルの比較や、福島県に住んでいることにより健康にどのような影響があるのかなどの正しい情報を調べ、原発や放射線についてより強く意識するようになりました。現在は生活面での不安はなくなり、自分自身できちんと判断できています。
 会津は私の「故郷」だと思っています。福島県はきっと復興します。私はその姿を見届けたいです。


No.49  タメリア・ブラントさん(いわき市・アメリカ出身/2013年2月投稿)

 私は震災前の2009年9月からいわき市内で暮らしています。英会話スクールの講師をしており、同僚や子どもたちが大好きで、何よりこの仕事が好きです。ここで働けることをありがたく思っています。震災後、英会話スクールの再開と住んでいたアパートの安全がわかるまでの3週間は、平キリスト福音教会(グローバル・ミッション・センター)の家族や友人たちと一緒に栃木県の那須へ一時避難しました。この期間、私を気にかけてくれる人たちと一緒にいることができ、ありがたく感じました。
 私はいわきが大好きなので、ここで長く暮らしたいです。いわきの方々は素晴らしいです。いわきにいる間に様々な国の人たちと出会うことができましたし、震災によって多くの家族(仲間)を得ることができました。


No.48  赵宇浩さん(福島市・中国出身/2013年1月取材)

 2011年5月より福島大学への留学が決まっていたときに東日本大震災が発生したので、家族や友人からは福島へ行くことを反対されました。両親が心配する気持ちもよくわかっていたし、原発問題など不安はありましたが、進もうと考えていた道を曲げたくなかったので、福島に来ることは変えませんでした。のちに、その年の中国からの留学生は私だけだったと知りました。
 福島の良いと思うところは、自然景観が美しいことです。私は中国でも都市部の出身なので、緑が豊かで空気がきれいな環境はすばらしいと思います。今の時期は毎朝吾妻小富士の雪化粧を見ることができていて、心洗われる美しさです。震災によってその美しさが奪われるようなことになって哀しいですが、空気も景色もきれいで食べ物もおいしく、何の問題もないということを伝えていきたいと思います。


No.47  中田ジェーンさん(いわき市・ニュージーランド出身/2013年1月投稿)

 もう大丈夫だと思えるようになったので、また小名浜港に行ってきました。1年が経ち、小名浜港に行くことに対し、緊張も薄れてきましたが、今でもスニーカーを履いていきます。先週末1歳半の娘を連れて、アクアマリンふくしまに遊びに行ってきました。娘は様々な海洋生物を見て、とても喜んでいました。私はアクアマリンふくしまが再開したことや、お客の数が少ないことを聞いた時に、応援の意味で以前からずっと行きたいと思っていました。当日の朝、早めに行きましたが、すでにお客さんがたくさんいました。色々な海洋生物を見て、楽しかったです。それに、展望台からもゆっくり見ることができました。アクアマリンふくしまは本当に幅広い年齢層の誰でも楽しめるところだと思います。
 私はいわきに10年も住んでいます。地震が起きた時、いわきはきっとゴーストタウンになってしまうだろうと思いましたが、それは間違いでした。この2年間、いわきはにぎわいがあり、転入者も徐々に増え、現在はキャンセル待ち(waiting list)の人もいます。いわきに避難してきて、いわきで生活を再開しようと思っている方々もかなりいるようです。いわきで生活したい理由はやはり親しみがあり、天候もよく、元の家からそんなに離れてないからだと思います。友人の話によると、この2年間だけで、いわきの人口は20,000人も増えたそうです。アパートはもう全て空きがないと聞きました。
 新しい仕事もたくさん増え、新しく建築した家もたくさんあります。よろこばしいことですが、渋滞も増えてしまい、医者に行ったら、長い列で並ばなくてはなりません。いわきの人口が急速に増加しているため、生活基盤整備も早く進めばいいと思います。
 http://worldvillage.sblo.jp/article/61652022.html


No.46  ジャレッド・ロジャーズさん(須賀川市・アメリカ出身/2012年12月取材)

 鏡石町のALT(外国語指導助手)をするようになって7年になります。  地震の時には、小学校にいて、泣きじゃくる子どもたちを避難させました。自分の家もつぶれているかと心配しましたが、電気も水も無事だったため、家が倒壊した友達を受け入れたり、水道や電気が止まってしまっていた友達にお風呂を提供したりしました。
 震災直後、外国出身の友達の中には一時的に避難する人もいましたが、人が親切で温かく、自然や温泉、スキー場もたくさんある福島が好きですし、多くの友達がいるこの場所を離れるつもりはありませんでした。一度帰国した友達も、今は戻ってきています。
 私は、近くの神社のお祭りや町のイベントでの神輿担ぎ、キャンプなどにも参加して、地域の人たちとは友達として付き合っています。最近では、地域の子どもたちに混じって太鼓を教えてもらったり、鏡石町のソフトボールチームに入ったりしています。震災の前に戻ると言うより、震災前以上に楽しんでいます。


No.45  猪俣和美さん(会津美里町・ベトナム出身/2012年11月取材)

 私は会津若松市内でベトナム料理のレストランを経営しています。子どものときに日本に来て30年以上会津地区に住んでいるので、近隣に住むベトナム出身者の方たちの相談相手になることが多いです。
 東日本大震災後すぐに、ベトナム料理の炊き出しをしました。そのご縁で、会津地区に避難している方が私のレストランに足を運んでくださったり、ベトナム出身者だけではなく東南アジア出身の方たちが故郷の味を楽しみに来ては交流を深めたりしています。


No.44  菅野エリさん(福島市・パラグアイ・アルゼンチン出身/2012年10月投稿)

 私は、夫の故郷であるという理由の他に、自然の美しさに魅せられて福島に移り住んだと言っても過言ではない。
 春には山桜が咲き、山に淡いコントラストをあたえ、東山の絵画のようになる。夏には緑があふれ、秋には可憐なコスモスが咲き、田圃が黄金に輝く。そして、静かな白い冬。
 私はこんな福島が好きだ。
 あの悲しい3月から1年8カ月。
 町には人々が、笑顔が、少しずつ戻ってきた。
 数日前、吾妻公園のイチョウ並木を散歩中、あるお母さんとかわいい兄弟に会った。
 兄弟は、お父さんのためにどんぐりを拾い集めたという。
 その大切などんぐりをひとつ、見知らぬ私にプレゼントしてくれたのである。
 兄弟の笑顔はイチョウの黄色い光の中で優しく輝いていた。
 その小さなどんぐりは私のデスクの上にあり、あのあたたかい光景を今も思い出させてくれる。
 http://worldvillage.sblo.jp/article/60059123.html


No.43  佐々ベンジャマスさん(福島市・タイ出身/2012年10月取材)

 夫と二人の息子と日本で暮らし始めて約4年が経ちましたが、あんなに大きな地震は初めてでした。震災のときは、ちょうど家族4人みんなが家にいて出かけるところでした。もしそれぞれが一人でいたら、もっと不安だったかもしれません。
 震災後は普段親しくしてくれている人たちが私に声をかけてくれたり、相談にのってくれて、とてもありがたかったです。
 放射能や原発のことはもちろん心配ですが、ニュースを見ても日本語がわからず、正しい情報が入ってこない方が不安です。ずっと日本語教室で勉強していますが、わからない日本語がまだまだたくさんあります。だから、勉強の他にも、日頃から積極的にコミュニケーションを取り、福島での生活に困らないようにしています。


No.42  スコット・アルガードさん(カナダ在住/2012年9月投稿)

 2001年から2004年の3年間、福島県国際交流協会で国際交流員を勤めた後、カナダへ戻り修士を獲得し、現在はアメリカのシカゴ大学にて博士課程研究生として福島県における文化と社会史を研究しています。
 この9月、約2年ぶりに第二の故郷である福島県に戻り,親友と再会した後、県内各地で様々な方々がどのように「復興」を理解し、どのように取り組んでいるかを視察し、県民の皆様の様々な声も聞くことが出来ました。貴重な経験として、農場で福島の美味しい果物も頂きました!課題は多々残っていますが、今の福島県は可能性にも満ちていると強く感じました。
 私自身も、これから福島県の親友と課題をいろいろ思案しながら、一歩ずつ前へ進んで行くことを楽しみにしております。
 http://worldvillage.sblo.jp/article/59082527.html


No.41  ラウン・ソチャッタさん(郡山市・カンボジア出身/2012年9月投稿)

 三春ハーブガーデンで。
 美しい花ときれいな空気があって、食べ物もおいしくてヘルシーなのでここに来ることが大好きです。
 特に、いろいろなハーブを選んで、お茶を飲むことが好きです。







No.40  佐藤シャヒッドさん(南相馬市・パキスタン出身/2012年9月取材)

 1987年に福島に移り住んで25年、日本国籍も取り、私は日本人として生活しています。
 震災後、多くの人が南相馬市から避難してしまい、私の英語スクールの生徒数も震災前の半数以下に減りました。そのため、以前は断っていた企業の英語研修の仕事もするようになりました。
 私は南相馬市で暮らし続けることを選びました。そう決めたからには、腹を据えて、ここで頑張って仕事をすることで、南相馬市の復興のために役に立ちたいと思っています。
 今年の5月にはカナダで町議員をしている甥が南相馬市に数日滞在し、実際に私たちの生活を見て安心して帰国しました。10月には同じくカナダから実弟も来ます。この二人には本当の南相馬市の様子をカナダに伝えてもらいたいと思っています。


No.39  佐藤ワラポーンさん(伊達市・タイ出身/2012年8月投稿)


私は家の庭でタイのハーブを育てています。食べる楽しみが増えました。



No.38  原田アヤ子さん(福島市・ブラジル出身/2012年7月取材)

 震災の時は、丁度岐阜に出かけていて、自宅に高校生の娘一人を残していました。なかなか連絡が取れずそれはそれは心配でした。娘は幸いにもブラジル大使館が準備した避難バスに乗車でき、約1週間後でしたでしょうか?静岡で会うことができました。今では、子どもは普通に学校に行き友だちと遊んでいますし、私も普通に仕事に行っています。これからも、ここで普段通りに暮らしていこうと考えています。福島に暮らして20年。福島は私の故郷です。皆さん、福島にはいい所がたくさんあります。是非福島に来てください。


No.37  後藤キャサリンさん(福島市・フィリピン出身/2012年7月投稿)

 2012年7月8日(日)に「みんないきいき Festival HKF Moving Forward….」というイベントが福島市で開催されました。
 福島県に住む外国出身者の皆さんが集まり、これからの福島について考え、情報交換をしました。
 他県に住む外国出身の方もたくさん参加し、食べ物や音楽、ダンスなどを通して、みんな元気になりました。


No.36  山本ミカさん(福島市・韓国出身/2012年7月取材)

 地震大国日本での大地震、そして福島第一原子力発電所の事故…。体験したこともない恐怖とやり場のない気持ち、あの事故からもう1年4か月が過ぎました。
 毎日の生活のなかで福島市に住む私は、放射性セシウムの問題が一番神経質になっています。水、野菜、肉とすべて海外からの輸入に頼るしかありません。このような毎日の生活にストレスが溜まってしまいます。
 このように感じるのは私ばかりではないと思います。私のストレス解消法は、私が講師を務めるハングル語教室の皆さんと韓国に行き、ハングル語の実践をしながら、新鮮な空気をおもいっきり深呼吸して、たくさん栄養を摂って、マッサージコースを受けることです。  これからも福島市に住む以上、このようなライフスタイルが今の自分に一番あっていると思っています。


No.35  マーク・スミスさん(会津若松市・震災時は富岡町在住・イギリス出身/2012年6月取材)

 マークさんは、今回の震災で富岡町から会津若松市に避難しています。 仕事は英語教師ですが、ライフワークとして電子音やシンセサイザーを用いたエレクトロニカのライブ活動をしています。活動場所は、県内というより東京や北海道などの県外がほとんどで、この6月は会津若松市で1回、札幌市で3回のライブが予定されています。
 マークさんは言います。「私は、県外でライブをする時、福島県から来たということに誇りを持ってステージに立っている。震災でいろいろなことがあったが、震災前からずっとやっていたこのライブ活動を、震災後も変わることなくやり続けることが、自分が自分であるために大切なことであるし、それこそが福島の復興だと思う」。
 先般行われた3月のライブがYOUTUBEに載っています。是非見てみてください。

 http://www.youtube.com/watch?v=VPuBq0e5qWU&feature=channel

 そのリンクからつながるページの右側にパフォーマンス「パート2」と「パート3」のリンクが現れます。そちらも是非ご覧ください。


No.34  服部秀子さん(二本松市・中国出身/2012年6月取材)

 震災後変わったことと言えば仕事が減ったことです。私は温泉旅館で働いているのですが、週1~2日不定期に仕事が入る程度になってしまいました。以前は中国や韓国、タイなど東南アジアからの外国人観光客もたくさんいたのですが、今はまるっきりありません。
 この5月からヘルパー2級の資格を取るための学校に通い始めました。資格が取れたらヘルパーの仕事をしようと思っています。また、昨年はできなかった家庭菜園も始めました。じゃがいも、とうもろこし、キュウリを植えました。
 私はここに住むことに決めました。放射線そのものよりも放射線のことを気にしてストレスを溜めるほうが恐ろしいと思います。放射線のことはあまり気にしないようにして、これまで通り暮らしていきたいと思っています。


No.33  徐 秀蓮さん(福島市・韓国出身/2012年5月投稿)

 最近暖かくなり、散歩が楽しみになりました。
何故かというと、うちの「サラン」という犬と一緒に散歩をするからです。
 一人で歩きながら散歩をするのはちょっと寂しいですが、うちのサランと一緒だから、毎朝散歩するようになりました。
 私が一番好きな言葉は、「愛」という言葉です。それで、うちの犬はオスですが、愛(サラン)と名づけました。
 その言葉のように見てるだけでかわいいし、歩く姿がとてもかわいいので、散歩が好きになりました。



No.32  星レニーさん(福島市・インドネシア出身/2012年5月取材)

 震災前からも、近くに住むインドネシア出身の人たちが私の家に時々集り、インドネシア料理を食べながらおしゃべりをしていました。彼らは研修生だったり、看護師候補生だったり、国際結婚だったりしてこちらに暮らしている人たちです。この集まりは震災後も続いていて、新しく福島に来た人も加わりながら月1回くらいのペースで毎回十数人集まっています。
 先日は、県協会からもらった放射線と健康に関するセミナーの講演録をインドネシア語に訳して説明してあげました。放射線に関しての心配はだいぶ無くなったと思います。自分で言うのもなんですが、私自身福島に住んで20年近くになることもあり、いろいろと相談しやすいらしく、彼らにとってはお母さんみたいな存在なんでしょうね。


No.31  チャン・ドアン・ズンさん(福島市・ベトナム出身/2012年4月取材)

 震災の時は1週間くらい断水が続いたので、毎日近くに住んでいる実家の家族と一緒に水汲みをしていました。近所にはお年寄りが多く、水汲みは難しいのです。数日してやっと母国の母と連絡が取れましたが、母は泣いていました。でも、こちらの家族もいるし仕事もあるし、すぐには母国に避難できませんでした。
 最初の数か月はやはり放射線のことが気になっていました。福島産の野菜も食べることを躊躇していました。でも今では、すっかり震災前の生活に戻っています。
福島の復興の後押しができればと、逆にどんどん福島産の野菜や果物を買って食べています。
 全国の皆さん、福島産のものを買ってください。福島県に観光に来てください。


No.30  ガラール・アハマドさん(福島市・エジプト出身/2012年4月投稿)

2012年4月28日に撮影した二本松市の合戦場のしだれ桜の写真です。
今年、初めて桜を見ました。すごくきれいでした。
ライトアップの桜もきれいでした。
1週間しか咲かないのは本当に残念です。


No.29  石田セシリアさん(福島市・ブラジル出身/2012年4月投稿)

 福島市は山々に囲まれています。豊かな自然を四季折々に楽しませてくれます。昨年の大震災から再び春が訪れました。今年も駅前の花時計は春の時を刻々と知らせてくれます。それを見て、人々の花見気分は盛り上がるのでしょう。



No.28  城坂 愛さん(須賀川市・中国出身/2012年4月取材)

 私には就学前の子どもが二人います。震災後は、せめて週末は子どもたちを放射線量の低い会津や県外へ連れて行って外でおもいっきり遊ばせようという動きが多くあります。私も知り合いの中国出身のお母さんたちと一緒に会津方面に家族旅行し、話している中で、学校の習慣がわからない、子どもが中国語を話せない、親子の会話が難しいなどの悩みを持っていることがわかりました。それなら会を立ち上げて一緒に悩みを解決しようということになり、『つばさ』という会を作りました。今は近くの公民館で月2回子どもたちに対して中国語を教えています。会員は7~8家族くらい。子どもにはお母さんが中国出身であることを自慢に思えるような子どもに育ってほしいと思っています。


No.27  森合パッサダさん(郡山市・タイ出身/2012年4月取材)

 日本に来て10年くらいになりますが、あんな激しい揺れの地震は初めてでした。「これで終わり、これも宿命」と思ったくらいです。原発事故のことは日本人の友人からの連絡で知りました。  幸い備蓄していた食糧や水があったので、しばらく家の外には一歩も出ませんでした。
 一時期は母国に帰ろうと思いましたが、仕事もせっかく見つかったこともあり、近くに住んでいるタイ人からもいろいろ声掛けしていただいたので、「一人じゃない」と思えてここにいることにしました。もちろん原発は今でも心配です。 時々ニュースにもなっていますし。でも放射線は目に見えないし、逆に気にしていたら生きていけないので、自分自身で心と体の健康管理に気を付けています。


No.26  真歩仁しょうんさん(福島市・カナダ出身/2012年3月取材)

 原発事故に関しては、妻と何をすべきか長い時間をかけて真剣に考え、結局庭や建物の除染が終わるまでは子どもだけ南会津の祖父母のところに預けることにしました。放射線レベルや家の除染などまだまだ頭が痛いことばかりです。それにしても事故のあった原発の名前が「福島」だったことはとても残念です。世界中の人々がこの惨事に福島県全体が巻き込まれたと思ってしまいました。私たちは友だちや家族が暮らす福島が大好き、家も仕事も大事、そしてここに住みたいです。私たちは、食べ物の放射能測定の改善や徹底した除染作業といった取り組みに希望を見出し、そしてそれが政権によって変わらない事を望んでいます。


No.25  三瓶純恵さん(福島市・震災時は浪江町在住・中国出身/2012年3月取材)

 3月12日の夜中、町役場から津島方面に避難するようにと無線が流れました。その時は2~3日で帰れるだろうと思っていましたから、その朝早くとりあえず身の回りのものを持って家族全員で避難しました。その後避難所を転々として8月から福島市内の仮設住宅に住んでいます。小学生の子どもが2人いますが、心の準備がないまま、突然の避難、慣れない避難所や仮設住宅での生活、新しい学校と子どもなりにストレスは感じているようです。浪江には5年前に新築したばかりの家があり、ローンも残っています。いろいろ考えてもしょうがない、なるようにしかならないと思っています。


No.24  ガラール・アハマドさん(福島市・エジプト出身/2012年2月取材)

 震災時は、エジプトにいました。先に福島に帰っていた妻にすぐに戻るように言ったのですが、彼女は福島のために仕事をしていましたのでそれを尊重しました。4月から福島市で妻と暮らしています。エジプトでは原発事故の事しか報道していなかったので悪い部分しか知りませんでしたが、今は趣味の写真を通して、県内の素晴らしい風景をたくさんカメラに収め、世界中の人に知ってもらうためにそれらの写真をネットで公開しています。先日、初めて雪を見ました。白い花びらか何かが降ってきたと思いました。とても綺麗で感動しました。この雪の写真も公開しています。これらの写真を見て、多くの人が福島を訪れてほしいと思います。 http://bit.ly/A9e3jX


No.23  永田リセさん(いわき市・トンガ出身/2012年2月取材)

 震災後1か月間は、近所の一人暮らしのお年寄りの面倒をみたり、他県のトンガ人に協力してもらって避難所で炊き出しをしたりと毎日忙しくしていました。単身赴任でトンガにいる夫からはすぐに避難するよう何度も連絡が入りましたが、お世話になっている近所の人、英会話サークルの生徒さんたち、その他たくさんの友人の顔が思い浮かび、みなさんを残し私だけがトンガに避難するということは到底考えられませんでした。5月からは英会話サークルも再開し、今はすっかり震災前の生活に戻っています。私は福島で暮らして35年になります。福島は私の故郷です。楽しいことを考えて、前向きに過ごしていこうと思っています。


No.22  ロペス・ケンさん(福島市・ フィリピン出身/2012年1月取材)

 私には、妻と1歳、5歳、7歳の子どもがいます。震災当時は、水もガスも止まり放射線への不安もあったので、16日には東京に避難し、その後フィリピンに避難しました。仕事のこともあるので子ども3人を実家に残して夫婦だけで5月に福島へ戻ってきました。今は、スカイプなどで子どもたちと連絡を取り合っていますが、会えなくてとてもさびしい。子どものビザのこともあるので3月には一度子どもたちを呼び寄せるつもりでいますが、放射線のことが心配です。外で遊ばせられるのか、食べ物はどうしたらいいのか、呼び寄せてもどのくらい居られるのか不安で仕方がありません。


No.21  徐京美さん(いわき市・アメリカ出身/2012年1月取材)

 震災で家が全壊したので、しばらく一人息子と一緒に避難所や友人宅に身を寄せていました。夫は当時アメリカで仕事をしていたので、すぐに帰ってきてもらい家族全員が揃ったのは18日でした。すぐに一軒家の借家を探し、そこでの生活を始めましたが今でも慣れません。夫の新しい仕事が鹿児島で見つかったので、私たちもこの夏には鹿児島に引っ越す予定です。震災があって既に10か月、毎日のように「復旧・復興」「放射線」「除染」と新聞やテレビで言われています。最初の頃は緊張感で他のことを考える余裕がなかったのですが、最近は正直言って疲れます。自分自身の心の「復旧・復興」が必要だと感じる今日この頃です。


No.20  菅野正美さん(二本松市・フィリピン出身/2011年12月取材)

 震災直後は、浪江町のほうから多くの方が避難してきたので、近所の人たちと一緒に避難所でボランティアをしていました。地震や放射線のことはとても恐ろしかったですが、今回の震災で家族や家を失った人がたくさんいる中、私はまだまだいい方です。今、ごはんは、子ども用には県外産米にして、大人とは別にして毎食2釜炊いています。毎日目に見えない放射線と戦っている感じです。でも愛する家族と一緒だからがんばれます。そしてなるべく様々な行事やイベントに参加してストレスを溜めないようにしています。


No.19  張 群さん(福島市・中国出身/2011年12月取材)

 市内で中華料理店を経営しています。地震直後は、改装して1年も経っていない店の中はめちゃくちゃになり、停電、断水で営業も出来ず、これからどうしようと本当にショックでした。でも日頃からごひいきにしてくれていたお客さんが徐々に戻り、今は何とかやっています。これまで1日も休まずこつこつと地道にやってきたことが、お客さんとの信頼関係につながったのだと思っています。大きな大きな財産です。震災の影響で観光業は大きな打撃を受け、同業者である旅館のコックさんたちの中には職を失った人も多くいます。政府には1日も早い復興対策をお願いしたい。ともかく美味しい料理を提供して人とのつながりを大切に暮らしていこうと思っています。


No.18  チンタカ クマーラさん(郡山市・スリランカ出身/2011年11月取材)

 今回の震災で、家族がバラバラになってしまいました。中学校3年の息子と妻はすぐに名古屋の友人宅に身を寄せ、そのままスリランカに戻りました。その後息子はアメリカの高校に留学しています。日本は高い技術力を持っています。是非専門家の頭脳を集結して、放射線除去の技術を一日も早く開発してほしいです。特に将来を担う子どもたちが心配です。早くしないと大きな問題になると思います。私は日本大学工学部に留学して以来ずっと福島にお世話になっています。本当に福島は「福の島」です。住むところは福島しかないと思っています。頑張っていくしかないですね。


No.17  朱雲飛さん(福島市・中国出身/2011年11月取材)

 震災後は、すぐに5歳の息子と妻の3人で中国に一時帰国しましたが、息子は、まだ中国の両親に預けています。生活は元に戻りましたが、仕事内容は変わりました。アジアからの留学生受け入れに関わる業務をしていますが、この原発事故の影響で従来の方法では留学生が見込めないため、さまざまな特典を盛り込むこととなりました。
 今、一番気になっていることは放射線の子どもへの影響です。多くの専門家が様々なことを言っています。いつになったら中国に避難させている子どもと一緒に暮らせるのか、将来の生活設計が立たないというのが実情です。


No.16  崔瑜娜さん(福島市・韓国出身/2011年10月取材)

 私は韓国からの留学生です。地震当日は同じ韓国の友人と一緒に避難所に泊まりました。翌日韓国の両親から原発事故のことを知らせる電話連絡が入り、その友人と一緒に高速バスに乗って福島空港まで行き、幸運にも14日にソウル行の飛行機に乗ることができました。その後大学が始まるということだったので自分の目で福島の様子を確かめるのが一番と、5月8日に福島に戻りましたが、意外と普通の様子にびっくりしました。その当時は、いつでも避難できるようにとパスポートを持ち歩いたり放射線を心配してマスクをしていたりしましたが、今は何もしていません。私は日本に留学する時に日本で大学を卒業すると決心しました。今はその気持ちを大切に学業に励んでいます。


No.15  小島 エウリパ アパレシダさん(福島市・ブラジル出身/2011年10月取材)

 地震の時は本宮市で仕事をしていました。福島市の自宅に戻れたのは夜の11時を過ぎていました。原発事故があったので、15日に夫と一緒にブラジル大使館が準備したバスに乗って東京へ向かい、ブラジルに一時帰国しました。その後福島に残っている同国の友人と1週間に1回程度電話で福島の様子を聞いて、そろそろ大丈夫かなということで6月6日に戻ってきました。放射線のことは心配していますが、どうしようもないこと。ただ地震には敏感になっていて、いざという時のために大好きなインスタントの味噌ラーメンなどを入れたバックを玄関に置いてあります。日本は「ヒロシマ」「ナガサキ」を経験してそれを耐え抜きました。日本人の持つ強い信念と希望で、今回のこの困難も乗り越えられると信じています。


No.14  アンドリュー チャップマンさん(会津若松市・アメリカ出身/2011年9月取材)

 私はこの5月から会津若松市国際交流協会に国際交流員として勤めています。地震の時は、丁度会津若松市国際交流協会の面接試験のために、台湾から成田行きの飛行機に乗っていました。私は2年前にも観光で会津に来たことがありますが、震災後もあまり変わっていないように思えます。でもここは放射線の値も低く直接的な地震の被害も少なかったにも関わらず、風評被害によって、観光客の数は、とりわけ海外からの観光客が劇的に減少し、農産物が売れません。私は震災後も会津で仕事をするということの決心は揺るぎませんでした。こういう大変な時だからこそ、会津に暮らしている外国出身者をサポートし、復興に協力したいという人たちへ情 報を発信していきたいです。


No.13  高橋リリアナさん(相馬市・メキシコ出身/2011年9月取材)

 地震の時、私は結婚式の準備のためメキシコに帰国していました。日本にいる夫からは実家は津波で流され、実家が経営している幼稚園は避難所となっていると聞かされました。私はすぐに日本に戻りたかったのですが、メキシコの両親は、物資不足の大変な時にみんなに負担かけるのではとどうしても許してくれませんでした。結局1か月後に日本へ戻りました。メキシコの両親は放射線のことをとても心配していますが、私が夫と一緒であり、みんなの役に立っていることを知り、ほっとしているようです。私は今、幼稚園を手伝っています。たくさんのイベントや援助は、幼稚園の子どもたちの心の支えとなっています。半数の子どもたちが家を失い、なかには家族を失った子どももいます。子どもたちに以前の笑顔が戻るようにすること、 これこそが私がここに戻った意味です。


No.12  ルイス グスターボ オリベィラさん(福島市・ブラジル出身/2011年8月取材)

 私には、昨年12月に生まれたばかりの娘がいます。震災当時、電気・水道・ガスが止まり、店も閉まっていてミルクやおむつが手に入らず、妻もストレスで母乳が出なくなりました。原発事故後、1か月半ほど妻の実家のニュージーランドに避難していましたが、今は普通の生活に戻ってそれなりの生活をしています。娘を肩車して散歩するなど自由に外で遊べないのがとても残念です。そして今は桃が旬。福島の桃は大好き、世界一です。でも食べることに抵抗があります。私も農学部出身なので農家の人の気持ちはよくわかりますが…。このような状況でもよくなることを信じて、希望を持って毎日を過ごしています。


No.11  ジーン・リュさん(新地町・アメリカ出身/2011年8月取材)

 3月11日の震災後、私の生活が劇的に変わったとは思いません。もちろんいろいろなことで不便はあるものの、周囲の人たちの最悪の状態を知っても不平不満を言うつもりもないです。今、生きている自分が幸運だと思うからです。変わったのは私の人生に対しての見方そのものです。
 この福島が災難から目を背けるのではなく、ひとつになって復興へ立ち向かっている姿に驚きを感じています。また、福島県内のALT(英語指導助手)の仲間たちが行っている支援活動に対して改めて敬意を示すとともに、その行動力にとても感動しています。


No.10  徐 秀蓮さん(福島市・韓国出身/2011年6月取材)

 震災時は、子どもの卒業式から戻ってきて家の前に車を停めたところでした。突然の大きな揺れに『家が壊れる』『神様助けて』と叫んでいました。原発事故のこともあったので、夫を残して3月一杯は子ども二人と一緒に東京の知人宅に身を寄せていました。4月に入って子どもたちの学校が始まるのを機に福島に戻ってきました。今なお避難所で不自由な生活を強いられている人たちを見て、私にも何かできないかと、今は、オリジナルの復興応援歌『3月11日から明日へ』を県内各地の避難所で歌って皆さんを勇気づける活動をしています。


No.9  サンジェイ・パリークさん(郡山市・インド出身/2011年6月取材)

 放射能が不安です。今は学校が始まったので中学生と高校生になる子どもはここにいますが、原発事故の直後である13日には、ここから250km離れている川崎市の親せきの家にしばらく預けていました。政府や東京電力は確率論で議論をしていますが、そんなことはここに住んでいる者にとっては何の意味も持ちません。私たち家族は子どもの学校のことや自分の仕事のこと、そして長くここに住んでいる両親のことがあるので郡山にいます。でも時々週末には、リフレッシュのため会津の温泉に出かけたりしています。


No.8  劉 延廷さん(福島市・中国出身/2011年6月取材)

 今大学3年生です。地震後は、友人宅や避難所に身を寄せていましたが、15日には中国政府が準備したバスで新潟に向かい母国に一時避難しました。大学も始まるので5月10日の夜に福島に戻りました。翌日大学に行ってみるとマスクをつけている人も思ったほどいないし、みんな楽しそうに笑顔でサークル活動をしている様子に感動しました。もちろん不安を持って福島に戻りましたが、この様子を見て、「大丈夫、あと2年がんばって大学を卒業しよう」と思いました。『負けない、がんばろう、福島』です。


No.7  石田セシリアさん(福島市・ブラジル出身/2011年6月取材)

 私はちょうどその時ブラジルに里帰りしていました。福島に残した夫とは2日後にやっと連絡が取れました。13日には成田に帰国したのですが、新幹線が不通で高速バスのチケットもなかなか取れず、結局福島に戻ったのは28日です。子どもたちが元気に外で遊ぶ姿が見られないこと、いつも放射能のことが頭から離れないことなど、今まで当たり前と思っていた生活ができないことが残念です。でも、その中でも楽しみを見つけて暮らしていきたいです。私は、福島が大好きです。一日も早くこれまでの福島に戻ってほしいと願っています。


No.6  シャルマ ナレンダルさん(福島市・インド出身/2011年6月取材)

 来日して10年になります。市内でインド料理レストラン2店舗と中古自動車販売会社を経営していましたが、地震発生後、レストランは材料が調達できないため一週間ほど店を閉めて、ほぼ毎日市内の避難所で炊き出しをしていました。現在は3店舗とも営業を再開しています。ただ、原発事故による放射能の風評被害でしょうか?中古車は県内では売れますが県外からの購入者は尐なく販売が大幅に落ち込んでいます。このままでは経営が厳しい状況です。でも従業員は全員残ってがんばっています。


No.5  クロイ ウッディングさん(郡山市・イギリス出身/2011年6月取材)

 郡山市内で英語教師をしています。地震当日は小学校での3学期最後の授業がある日でした。家に帰ったら、家中めちゃくちゃの状態になっていました。近所の人に一人では大変だからと招かれて、朝まで一緒にいさせてもらって、とても心強かったです。新学期が始まって学校に行くと、子どもたちが歓声を上げて迎えてくれました。原発問題で厳しい環境に置かれている子どもたちを元気づけたいです。放射能のことは心配ですが、母国にいる父からは今のレベルでは大丈夫だよと言われ安心しています。以前から習っているお茶の稽古の時間だけは、いろいろな不安から解放されリラックスでき ますね。


No.4  高橋イエティさん(川俣町・インドネシア出身/2011年6月取材)

 地震発生時、子育てボランティアの活動中でした。参加していた就学前の子どもたちを安全な場所まで避難させた後、揺れが収まるのを待って会場の戸締りを確認して帰りました。自宅は井戸水を使っていたので、水だけは普通に使えました。しかし、上水道ではないため役場の放射線レベル検査が受けられず、逆に飲んで大丈夫なのかが不安です。築百年の家は地震でひどく傷んでしまい、役場に罹災証明書を申請しましたが、損壊の状況を十分に説明できず、適正な評価だったのか不安です。小学生の子どもの健康を考えると、関西方面に移りたいです。でも子どもの学校のことがあって決断できない でいます。


No.3  呂学如さん(月舘町・中国出身/2011年6月取材)

 あの地震の時、あまりの大きな揺れに正直言って「これが最期だな」と覚悟を決めました。その後も大きな余震が続いたので、その晩は家内と愛犬2匹で車の中で寝ました。放射能はもちろん心配です。でも心配しすぎると精神的に悪いし、かえって病気になってしまうと思います。レントゲン検査と比べればそれほどでもない、これも私の人生の一部、天命である、平常心でいなければと思っています。そう思わないと生きていけません。一時帰国していた家内も5月末には戻ってきます。 また一緒に愛犬と散歩したいですね。


No.2  後藤キャサリンさん(福島市・フィリピン出身/2011年5月取材)

 当協会タガログ語通訳員である後藤さんは、震災直後から自主的にフェイスブックを通じて、福島県の被災状況や当協会の地震情報センターの情報などを国内外に流したり、ボランティアでフィリピン大使館と県内にいるフィリピンの方々の間の連絡調整役を担ったりしていました。後藤さんは、一人でも多くの人たちがデマに惑わされず正しい情報を得て、冷静に行動してほしいと思ったそうです。


No.1  手塚玲子さん(福島市・中国出身/2011年4月取材)

 当協会多文化共生サポーターである中国出身の手塚さんは、ご自身も福島市内に家族とお住まいで、断水などで何かと大変な中、震災後にオープンした「外国語による地震情報センター」で、県災害対策本部から出される様々な情報を中国語に翻訳するとともに、中国語による相談に応じてくれました。
 誰も体験したことのない大地震と津波、原発、そして度重なる余震という誰でも不安で仕方がない時に、手塚さんの前向き な姿勢と笑顔には相談者も助けられました。


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